『引き返せない』

 何がスイッチなのかわからない。一度そのボタンが押されると、もうやめることができない。がつがつと食い物を漁り、食べつくすまで止まることはない。そうやって食べ散らかした残骸を見て、あっと我に返るのだ。肥大していく欲望、蛇がネズミを丸呑みするように、欲望は理性を食らいつくしていく。


 私は絵巻物に描かれる餓鬼の姿に自分を重ねてみる。顔は醜く、ぽっこりと突き出した腹部は見るものを醜悪な気分にさせる。常に飢えと乾きに苦しむ姿。私の半生は何だったんだろう。そう思えてならない。来る日も来る日も体重の増減に気を使い、美の向上を目指した。ただそれだけだ。その結果の餓鬼道か。

 15の時、好きだった男に言われた一言。「痩せれば付き合ったかも」そんな不用意にぶつけられた言葉は重く、私の小さな自尊心は吹き飛んだ。以来、食べるものに気を使い、体調維持の為の運動を心がけた。いくら心は灰色で覆われていても、体は正直だ。見る見る内に痩せ、周りの男の見る目が変わっていった。もっと見て欲しい、もっともっと見て欲しい。見られることで辛い食事制限も辛い運動も報われた。

 「綺麗になったね」
 「付き合って欲しい」
 「結婚してください」

 年齢を重ねて妖艶さを身につけた。男共のランクは上がり、生半可な男には一瞥たりともくれなくなった。人生はきらびやかな光を放ち、ずっと先まで照らしてくれた。私はただそこに向かって歩くだけでよかった。人生の折り返し時点を過ぎた頃、私の中での信仰が揺らいだ。
 
 「もう我慢しなくていい」
 「ずっとこの暮らしが続けられる」
 「好きなように生きて行ける」

 徐々に食べる量が増えていった。抑えつけようとも思わなかった。食べれるだけ食べればいい。口に入れれるものなら何だって口に入れた。破れた包み紙、飲みかけの砂糖水、茹でただけのパスタ。荒れていく部屋を見る度に感じた焦燥感も徐々に薄れていっている。もうどうだっていい。


 長い髪をした餓鬼がこちらを見て笑いかけてくる。



ふぃn

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