少ない写真

 僕は記憶が悪いもんだからすぐに出来事を忘れる。
大学時代の思い出なんか話しても、まったく覚えて
ないことも多い。



 せめて旅行くらい、記憶に留めておきたい。そう思って
写真を撮りだした。バイトでカメラマンの手伝いをしていた
ことも関係あるかもしれない。


 それで旅行や出来事を写真に撮りつづけた。僕は風景
写真というのをあまり撮らなかった。やっぱり風景はいくら
カメラの性能が良くなろうとも、現実に敵わない。その場所
には音もある。匂いもある。そしてそこまで辿り着いたとい
う想いがある。それだからか、感動して夢中で写真に収めた
サムイ島の海や、見渡す限り広がった砂漠や、歴史が息づく
遺跡も写真にしてしまうと、ちっぽけになった。その時の
感動に浸りたくて、アルバムのページを開くけれども、
「あら、こんなにしょぼかったっけ?? 」と少し陰鬱な気分に
なる。そういう理由で、風景写真を撮ることは減っていった。


 その代わりに、必ずといっていいほど人の姿が写った。
現地の物売りや旅の仲間。自分の姿が写っている写真も
好きだ。たいていが貧乏旅行なので、腹は空き、騙されな
いようにと目は鋭い。焼けた肌はそれだけで、B級冒険
映画の主人公に見えるからだ。

 それをたまに酒を傾けながら見る。「あぁもっとワイルドに
生きなくては! 」なんて、日頃の不摂生で萎びた体を眺め
ながら、思ったりもしたものだ。


 時は移り、考えも変わる。


 最近では逆に、写真は撮らないほうがいい。そんな風に
思っている。福岡、大阪、京都、滋賀、メキシコ、東京。こう
たった6年で住む土地が6箇所も変わっていれば、当然引越
しも多くなる。あれほど一生懸命撮った写真も行方知れず。
メキシコで消失した写真もある。パソコンという便利な機械
の中に入れておいても、壊れてしまっては取り出せない。

 昔の写真に寄り添うことはできなくなってきたけれど、その
代わりそいつをちょこちょこと書き出した。書けば思い出す。
むしろ、辻褄を合わせるために記憶をいじる。そうやって、
一枚一枚の写真の代わりが、一つの失敗談。一つの恋愛話。
一つの心霊体験。という具合にいきいきと輝きだす。


 もちろん自分の中で輝きだすだけだけど、今度は記憶
としてでなく、話として頭の片隅に定着するから、写真が
ないと語れない話なんかよりも随分使い勝手がいいなんて
思う。



 こんなことを言っておきながら、将来ばかばかと使い出したら
いやだけど、フェイスブックやミクシーは連絡用。毎日の細々
とした写真を載せられても、こっちはそんなに興味ないですよ。
と言いたい。


 えっ?このブログもそうだって?そりゃ失礼しました!




ふぃn
 

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック